私は1973年12月13日に大阪で生まれました。母が、保育士をしており、幼いころは私も保育所に預けられて育ちました。小学校では、やんちゃな幼少期を送り、近くの川で魚釣りをしたり家の近くに秘密基地を作ったりして遊んだ記憶があります。なんでもないことで喧嘩をして家出をしたこともあり、そのたびに両親を困らせるような子どもでした。ただ、子どもの頃は自分が正しいと信じたことを曲げない子どもでした。そのことがきっかけで小学校2年の時に運動会を途中でボイコットしたことがあります。母はそんな私の性格を承知していて、理屈立てて説明をして納得させてくれていたようです。
小学校高学年の時に、その当時はまだ珍しいパソコンを父親が買ってたことがきっかけでパソコンをいじるのが好きになりました。中学校の時には簡単なゲームを作って遊んでいました。そのころ将来はプログラマーになりたいと思っていました。そのため、高校はプログラマーの勉強ができそうな工業高校に進学し、部活動も情報処理部に入部し、プログラミングの勉強をしていました。その頃、作ったプログラムは、地震発生により津波が伝搬するさまをシミュレーションするものや平面上に描いた絵を球状に配置して回転させるものなどを作っていました。高校3年生の冬休みには、円周率を計算するプログラムの作成も行い、何十万桁という桁数の円周率の計算に成功しました。どれも、熱中して取り組みました。そのことが私の中でのプログラミングに関する基礎となっていると思います。しかし、その経験を通じて感じたことは、「このままプログラミングを仕事にしてしまうと気が変になるかもしれない」というものでした。そこで、プログラミングは趣味として、仕事は別のものにしようと考えるようになりました。そこで、工業高校で学んだ電気の知識を役立てるために高校卒業後は、大阪市役所に就職しました。
大阪市役所では都市整備局営繕部に所属し、主に小中学校の設計・業務管理等に関わりました。私は、高校在学中に第三種電気主任技術者の資格を取っていました。その際に、学ぶことの楽しさも同時に学ぶことができました。高校三年間で資格を取らせるために入学時に声がけをしていただき、勉強のための時間を作ってくれた吉岡先生には本当に感謝しています。そのこともあり、大阪市役所入庁後も夜間の大学進学を考えていました。当時、公務員は定時で帰れるというイメージがあり、夜間大学進学も積極的に推奨していると聞いていました。しかし、実際はそんなことはなく、周りの大学に通う先輩方もほとんど通学できていませんでした。それに大学に行くのであれば、しっかりと勉強に集中したいと考え、両親に相談しました。両親は、進学を許してくれました。そこから、大学進学のための受験勉強が始まりました。
あまり知られていないことかもしれませんが、工業高校は基本的に卒業後は就職することを前提にしています。そのため、勉強内容は大学入試を前提にしていません。つまり、普通、大学入試に出てくるような科目を容赦なく削って時間を作り、専門教科の学習時間に充てます。その結果、そのまま大学入試を受験すると、まったく習ったことのない問題ばかりに出くわします。1年目はなすすべもなく終わりました。そこで、1年間は予備校に通わせてもらいました。予備校での時間は予想外に楽しいものになりました。何といっても予備校の授業で学ぶ内容全てが新鮮なのです。そんなところからのスタートでしたが、なんとか大学に滑り込み。神奈川へとやってきました。
大学では、逆に高校で真面目に勉強していたこともあり、ほとんどのことが学んだことのあるものだったので楽でした。ただ、高校では割愛されていた理論についても学ぶことができ、有意義な時間を過ごすことができました。工学系の大学では実験とレポートの提出は必須です。しかし、それは工業高校でも同じでした。そのおかげでさほど実験についても苦労せずに取り組むことができました。そういったこともあり、大学では成績もよく、3年生の頃には大学院への進学を促されるようになりました。そのころ、自分の中では電気工学よりも電子工学の分野に興味の対象が移り始めていました。そこで、他大学の大学院を紹介され、横浜国立大学の大学院への進学を決めました。ただ、神奈川工科大学でも、しっかりと実績を作ろうと3年生後半から所属した研究室で取り組んだ「調光装置の電源側高調波電流低減のための並列多重PWM制御回路の検討」について、データをまとめ、なんとか学会発表まで行うことができました。その際には、高校の時に培ったプログラミングスキルが役に立ち、シミュレーションデータと実験データとの突合せまでをまとめきることができたことはひとつの自信になりました。
横浜国立大学での大学院生活は、自分の中ではあまり良い経験とは言えませんでした。ひとつは自分自身の実力不足。もうひとつは大学が変わったことによる環境の変化に対応しきれなかったためです。そのため、これといった成果を残すことはできず、どちらかというと明確にではありませんが無力感を感じた時期でもありました。今考えれば物性物理の難しさだったのだろうと思います。とはいえ、論文は認められなかったものの、ロサンゼルスでの初の学会発表も経験しました。そうして、さらに博士課程前期から後期への進学も考え始めていました。と同時に横浜国大で師事していた教授が定年退官するということから、再度、別大学への進学を模索しました。しかし、ここで再度、入試の壁が立ちはだかります。専門教科以外の基本的な学力はやはり足りず。なんとか横浜国立大学大学院の別の教授の下で後期課程に進学させてもらうことになりました。しかし、半年もたたずに教授と衝突して退学。就職することになりました。
当時、大学院で後期課程に進まずに就職した人たちは有名大手電気メーカに就職していました。メーカの推薦枠が学校で割り当てられ、人数を調整して落ちないようにしていました。なので、メーカに入る分にはこれといった就職活動もあまりなく決まっていました。しかし、後期課程からの退学です。中途での就職活動から始めなければいけませんでした。ただ、やりたいことは決まっていました。物性物理やプロセスに関わる仕事。但し、大手企業はには行きたくありませんでした。比較的、小さめの会社。そういった条件で調べたところ、ファブレスの会社か技術系派遣会社が自分を活かせるのではないかと考えました。そこで、面接を申込み、創業三年目の若い技術系派遣会社への就職が決まりました。
技術系派遣会社での仕事は、技術系派遣会社に正規雇用された状態で、他メーカに開発補助要員等で出向する形態でした。当時から問題になっていた一般派遣は、派遣契約をした非正規雇用で、その不安定さが問題視されていました。しかし、派遣会社に直接雇用されている技術系派遣社員は請負に近い形態で、需要のある開発分野に投入されては長期間、開発スタッフとして取り組むことになります。私は、在籍中に2社に出向し、通信用レーザー用の光学系化合物半導体プロセスとシステムLSI系Si半導体プロセスの開発に従事しました。正社員同様に扱っていただいたこともあり、正直、自分にとってはやりがいのある仕事だったと思っています。しかしながら、問題も多い仕組みでした。
当時から一般派遣と技術系派遣を含めた専門職派遣の差があまり理解されていませんでした。そのことが、派遣労働者側のモチベーションに影響を与えていました。また、派遣労働者でも有能な人ほど、派遣先での引き抜き対象となっていました。法律も、それを奨励していたようなところがあります。その結果、技術系派遣会社に有能な人が残りにくかったのです。そのことが、技術系派遣会社に在籍する技術者自身のレベルを向上させづらくしていました。35歳限界説が言われていたのも、そういったことが原因でした。そこで、技術部門の上司と共に様々な対策を検討し実行しました。キャリアアップ研修制度の立上げも行いました。しかしながら、会社の体質として技術系と管理系との間には大きな考え方の開きがありました。そこで、技術者が管理系に入ることで変えることができるかもしれないと考え、管理部門への転属願いを出し、庶務・営業と経験もしました。その後、同じように管理部門に入った元技術者も出てきました。それでも変わりませんでした。会社云々ではなく、社会として、どうしようもない壁がそこにはあるのだとわかりました。
何をどうすればよいのか迷っていた時に、Web上にある広告が目に入ってきました。それは、「小沢一郎政治塾 塾生募集」と書かれていました。それまで、まったく政治に関心を持っていませんでしたが、技術系派遣の問題に取り組む過程で少し政治が身近になっていた私は、政治家養成が目的ではなく社会のリーダ育成を目指すという理念にも惹かれ、塾生に応募しました。その後、2年間。半期に一度、3泊4日の研修を経て様々なことを学びました。経済のこと、歴史のこと、今の社会問題、そして、政治の役割。これからの自分について考えるきっかけになりました。そして、そのことがきっかけとなり、技術系派遣会社を退職し、政治の世界に飛び込みました。
退職後は、まず国会議員秘書になりました。その時点では、まだ自らが議員になろうとは思っていませんでした。しかし、自分が感じた問題を何らかの方法で解決したいと考えていました。その方法として国会議員を使って実現しようと考えました。しかし、秘書として活動すればするほど見えてくる世界があります。これまで感じてきた以上の課題がそこにありました。そこで、2011年の海老名市議会議員選挙に自ら立候補し初当選させていただきました。さらに2度の選挙を経て現在3期目の活動を行っています。
私は、これまでの活動の中で、少しずつ地域の皆さんにも名前を覚えてもらい、海老名のために働く人間として認めてもらえるようになってきたと感じています。ただ、海老名に引っ越してきた人間が地域に根差していくには長い時間がかかります。さらに、政党と縁を切った政治家・議員はほとんど見たことがありません。しかし、そんな政治家が選択肢として、私は必要だと思っています。これまで感じてきた課題が解決できているとは思いませんが、少なからずその手段を得てきていると思っています。これからもしっかりと特色を生かしながら取り組んでいきたいと思います。
家族については少しだけ紹介いたします。妻は働きに出ています。子どもは小学校に入学しました。なかなか時間通りに動かないので、送りが必要な時は主に私が一緒に行きます。食事は、朝食は妻が、夕食はお互いが交互に作っています。どちらかが夕食を作っているときは、もう一方が子どもの相手をするのと、お風呂の準備をします。習い事に連れて行くのは主に私の役目です。お風呂は、子ども次第で一緒に入らない方が食器洗いと寝床の準備をします。子どもがお風呂から出たら保湿剤を塗ったり、パジャマを着せたり、歯磨きをさせたり、仕上げ歯磨きをしたりして、絵本を読んで寝かしつけ。ここまでを途中交代しつつ分担して行います。本当に、世の中の複数人の子どもがいる家庭の子育てをしている方々を尊敬します。正直、ひとりの娘に振り回されています。しかし、笑顔を絶やさない我が娘。その笑顔に救われているのかもしれません。少なくとも、わが子がこれからも笑顔でいつづけられるように。そして、わが子のように子どもたちが笑顔でいられるように。
学歴
- 神奈川工科大学(旧幾徳高専)電気電子工学科 首席卒業
- 横浜国立大学大学院 博士課程前期修了
経歴
- 現海老名市議会議員(3期目)
- 議会役職:副議長/総務・文教社会・経済建設常任委員会委員長等歴任
- 会派:政進会
- 消防団員(第4分団所属:H27・H30・R5年度分団長)
- 保護司
- 技術系派遣会社にて9年間勤務
- 海老名青年会議所 OB
- 神奈川工科大学吹奏楽部OB